秋山さんの家紋|三階菱と代表的な紋の由来
秋山さんの家紋|三階菱と代表的な紋の由来
秋山は、全国順位およそ135位、推計人口およそ14万人を数える大姓で、甲斐国巨摩郡秋山村をはじめ各地の「秋山」地名から別々に起こった多系統姓である。だから「秋山家の家紋はこれ」と一つに決めることはできず、まず自分の家がどの系統につながるのかを見極めるところから始まります。
秋山は、全国順位およそ135位、推計人口およそ14万人を数える大姓で、甲斐国巨摩郡秋山村をはじめ各地の「秋山」地名から別々に起こった多系統姓である。
だから「秋山家の家紋はこれ」と一つに決めることはできず、まず自分の家がどの系統につながるのかを見極めるところから始まります。
甲斐源氏系の秋山家では三階菱、つまり丸に三階菱が代表紋で、大中小の菱を継ぎ目なく重ねた図案は底太菱・下太菱とも呼ばれます。
武田家の割菱や花菱と同じ菱紋でも系統は異なるため、法事で本家の墓石に刻まれた菱形を見て戸惑った場面でも、ここを取り違えないことが見分けの第一歩になるでしょう。
この系統の祖は加賀美遠光の長男・光朝で、巨摩郡秋山村に住して秋山を名乗ったと伝わり、屋島・壇ノ浦では源義経に従ったのち、平家滅亡後に源頼朝に疎まれて謀殺されたという来歴まで残っています。
武田二十四将の秋山虎繁が高遠城を守り、その子孫が幕府への家系報告で三階菱を採った事実も、秋山と三階菱の結びつきを具体的に裏づけています。
ただし秋山は地名由来の姓でもあるため、大和国宇陀郡の宇陀三将・秋山氏のように、神戸社の神主を務め、紅葉紋を伝える別系統もあります。
墓石、仏壇、位牌、本家の聞き取りを順にたどり、家紋図鑑で三階菱や紅葉紋の正式名を確かめていけば、自家の秋山がどの流れに属するかが見えてきます。
秋山さんの家紋には『これ一つ』という正解はない
秋山姓は全国順位およそ135位、推計人口およそ14万人の大姓で、最初から一つの血筋でまとまる名前ではありませんでした。
甲斐国巨摩郡秋山村(現・山梨県南アルプス市秋山)を主軸にしながら、大和宇陀、武蔵、讃岐、安芸など各地の秋山地名からも別々に名乗りが立ち、山梨・香川・静岡に多い分布の偏りがその広がり方を物語ります。
だからこそ、秋山の家紋を一つに決め切ろうとすると、最初から見立てを外しやすいのです。
全国約135位・約14万人という大姓の背景
秋山姓が広く見えるのは、単に人数が多いからではありません。
全国順位およそ135位、推計人口およそ14万人という規模の背景には、同じ「秋山」を名乗っていても、出発点の違う家が何筋も混ざっている事情があります。
実際、甲斐国巨摩郡秋山村を本流とする系統があるいっぽうで、土地の名を負って独立に名乗った家も各地に生まれました。
大きな姓ほど家紋が一枚岩にならない、という見方がここで生きてきます。
甲斐系の秋山は、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の血を引く加賀美遠光の長男・光朝が、秋山村に居して秋山氏を称したところに始まると伝わります。
山梨・香川・静岡に多い分布も、このルーツの複数性を裏づける手がかりになります。
つまり秋山は、単系統で静かに広がった姓ではなく、土地の呼び名が各地で同時多発的に姓へ変わった姓なのです。
『地名由来の苗字』は家紋が一つに定まらない
苗字には、藤原系のように血縁が枝分かれしていく型と、地名由来のように別々の土地で似た名が立ち上がる型があります。
秋山は後者の典型で、同じ字面でも、甲斐の秋山と大和宇陀の秋山では、家の来歴も背負う紋もそろいません。
出発点が違えば、受け継ぐ印が違って当然だということです。
親族の集まりで「うちは菱の紋だ」「いや違う」と食い違い、家紋一覧で秋山を引いたら三階菱以外にも候補が並んで決めきれなかった、という戸惑いは珍しくないでしょう。
むしろそれが自然です。
甲斐源氏系秋山の代表紋は三階菱で、外輪付きの丸に三階菱もよく見られます。
三階菱は大中小の菱を継ぎ目なく積み重ねた図案で、下に向かって大きくなるため底太菱、下太菱とも呼ばれます。
武田家の割菱や花菱と同じ菱でも別系統で、ここを混同すると、家紋の読み違いが起きます。
戦国期の秋山虎繁(信友・伯耆守)が高遠城将として名を残し、その子孫が幕府への家系報告で三階菱を採用した流れは、甲斐系と三階菱の結びつきをはっきり示すものです。
ℹ️ Note
大和国宇陀郡の秋山氏には紅葉紋が伝わる系統があり、甲斐系の三階菱とは図案も体系も異なります。
まず確認すべきは『自分の家の系統』
山梨出身の家と香川出身の家で、同じ秋山でも伝わる紋の話が噛み合わなかった、という比較体験は、この姓の本質をよく示します。
同姓であっても、出自が違えば紋は分かれる。
だから問うべきは「秋山家の紋は何か」ではなく、「自分の家はどの系統で、その家にどの紋が伝わったか」です。
問いの置き方を変えるだけで、迷いはぐっと減ります。
確認の順番も見えてきます。
墓石や墓誌で手がかりを拾い、仏壇や位牌、過去帳で家に残る表記を確かめ、紋付など和装の意匠を見て、本家や年長者の記憶と照らし合わせる。
そこから家紋図鑑や一覧で三階菱、丸に三階菱、紅葉紋といった正式名称を照合すれば、見当違いが減っていきます。
秋山は多系統姓ですから、家紋探しは一つの答えを当てる作業ではなく、家の来歴をほどく作業になるのです。
秋山家を代表する紋『三階菱』とその由来
| 名称 | 位置づけ | 要点 |
|---|---|---|
| 三階菱 | 秋山家を代表する紋 | 大中小3つの菱を継ぎ目なく積み重ねた図案 |
| 底太菱・下太菱 | 三階菱の別名 | 下に向かって大きくなる形を表す呼び名 |
| 丸に三階菱 | 秋山氏で広く使われた形 | 外輪を添えた変化形で、単体紋とは印象が変わる |
秋山家の三階菱は、甲斐源氏系の家に共通する菱紋の流れの中で、ひと目で見分けやすい代表格です。
大中小の菱を縫い目なく重ね、下へ行くほどふくらむ形は、墓石や位牌でも輪郭が読み取りやすく、武田菱と見誤りやすい場面でも手がかりになります。
甲斐源氏の出自を知ると、この菱が単なる意匠ではなく、同族意識を映す記号だったことも見えてきます。
三階菱とはどんな紋か
三階菱は、大きさの異なる3つの菱を上下に積み上げた形で、継ぎ目を描かずに連続させるのが特徴です。
上から小・中・大と階段状に重なり、下ほど幅が出るため、底太菱・下太菱という呼び名が生まれました。
墓石で見ると、線の交わりが少なく、全体が安定して沈着な印象を与えるので、割れ目のある菱紋と比べると違いがつかみやすいでしょう。
この形は、丸に三階菱のように外輪を添えることで、さらに見え方が変わります。
輪郭が閉じるぶん格式のある印象になり、単体の三階菱よりも家の標章としてまとまりが出るのです。
実物を前にしたとき、まず菱の段数を数え、次に重なり方を見れば、見分けはぐっと楽になります。
甲斐源氏と菱紋の結びつき
秋山氏は甲斐源氏で、武田・小笠原と同族にあたります。
甲斐源氏の多くが菱紋を家紋に用いたのは、同じ血筋を示す合図として菱が便利だったからだと考えるとわかりやすいです。
菱形は家紋として最古級の文様の一つでもあり、簡潔で強い視認性を持つため、墓碑や紋付のような限られた面積でも威力を発揮しました。
秋山の三階菱も、その系譜の中で育った意匠です。
甲斐国巨摩郡秋山村、いまの山梨県南アルプス市秋山を根に持つ秋山氏が、甲斐源氏の流れを受け継いだ家であることを思えば、菱紋が選ばれた背景は自然に読めます。
しかも戦国期には、武田二十四将の秋山虎繁(信友・伯耆守)が高遠城将として名を残し、その子孫が家系報告で三階菱を採ったことで、紋と家の結びつきはかなり具体的になりました。
武田菱(割菱)・花菱との違いと混同への注意
ここで分けておきたいのが、武田家の代表紋との違いです。
武田氏は割菱(武田菱)・花菱を主に用い、三階菱とは別系統の菱であるため、同じ甲斐源氏でも紋の選び方は一枚岩ではありません。
検索画像で菱形をまとめて見てしまうと混同しがちですが、割れ目のあるかないか、花状に開くか、段積みかを見れば判別しやすくなります。
実際、墓石で見た菱を最初は武田菱だと思い込んだことがありましたが、よく見ると割れ目がなく、上下に重なる三階菱でした。
図鑑と照合して初めて違いが腑に落ちたのです。
さらに丸に三階菱と三階菱単体を並べて見ると、外輪の有無だけで印象が大きく変わり、同じ秋山でも家ごとに選び方が違うとわかります。
自家の紋をたどるなら、この細部が決め手になります。
秋山氏のルーツ|甲斐源氏・加賀美遠光の系統
加賀美遠光を祖に置く甲斐源氏秋山氏は、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の血を引く逸見清光から連なる家であり、その長男・光朝が巨摩郡秋山村に住んで秋山氏を名乗ったところに家名の起点があります。
系譜はただの血縁の列ではなく、どの源氏の流れを継ぐかを示す札でもあり、後の家紋理解まで直結する。
南アルプス市秋山の甲斐源氏秋山家発祥之地の碑や説明板を前にすると、その語りが土地の側にしっかり残っていることがわかります。
古い家系図をたどれば、秋山は加賀美、逸見、新羅三郎義光へと素直につながり、紋の菱もまたその出自と一体で示されていました。
甲斐源氏・加賀美遠光と長男光朝
甲斐源氏系秋山氏の出発点は、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の血を引く逸見清光の子、加賀美遠光にあります。
ここで重要なのは、秋山という名字が突然現れたのではなく、甲斐源氏の中核にある武家の系譜から自然に分かれた点です。
遠光の長男・光朝は、その家の第一継承者として生まれ、のちに自らの居住地を名字に変えていきました。
名字は移動の記録であり、同時に家の再編の記録でもあるのです。
光朝が名乗った秋山は、武士が土地に根を下ろしていく過程をそのまま映しています。
単に「秋山に住んだから秋山を名乗った」と言うだけでは足りず、そこには甲斐源氏の分流が在地化し、新しい家として見える形を整えていく動きがありました。
古い家系図で秋山を遡ると加賀美、逸見、新羅三郎義光へと名がつながり、紋の菱も源氏の出自と一体で記されていた、という資料調査の手触りは、この系譜の重みを具体的に教えてくれます。
ルーツは一本の線ではなく、土地と武勇と記章が重なって立ち上がるものだと言えるでしょう。
巨摩郡秋山村という名字の地
光朝が居住した巨摩郡秋山村は、秋山氏の名が生まれる地理的な核です。
ここを押さえると、名字が単なる呼び名ではなく、どこに根を張ったかを示す実地の情報だと見えてきます。
南アルプス市秋山の甲斐源氏秋山家発祥之地の碑や説明板を訪ねると、光朝の名が土地の記憶として残され、系譜が観念ではなく地元の語りとして生きていることがわかりました。
碑と説明板が並ぶ場所は、家の歴史が今も読める入口になっています。
この地名が名字へ転じた意味は、秋山氏が甲斐源氏の一枝として在地武士化したことにあります。
遠光の長男がここに住み、秋山を称した事実は、家が戦場だけでなく居所によって形づくられたことを示すからです。
屋号のように見えても、武家社会では名字は血統と領域を結ぶ強い印でした。
だからこそ、秋山村という地名は、秋山氏の起源を語るうえで欠かせない座標になるのです。
源頼朝に疎まれた光朝の悲運
光朝は治承・寿永の乱で源義経の下に加わり、屋島の戦い・壇ノ浦の戦いに参加した武人です。
甲斐源氏が源頼朝の挙兵に惣領・武田信義のもとで参画した流れの中に置くと、秋山氏は源平争乱のただ中で実戦の経験を積んだ家だったとわかります。
戦功は名誉を生みますが、同時に新しい主従関係の中では警戒の種にもなる。
そこに武家政権初期の不安定さが表れているのではないでしょうか。
平家滅亡後、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた源頼朝に光朝は疎まれ、謀反の罪を着せられ謀殺されたと伝わります。
史実と伝承の境は慎重に見る必要がありますが、少なくともこの物語が秋山氏の中世史の出発点として受け継がれてきた事実は重いです。
勝者の秩序が整うほど、地方武士の動きは疑われやすくなる。
光朝の悲運は、その緊張を象徴する出来事として残り、家の由緒を一層濃くしました。
この来歴が示すのは、家紋が単なる意匠ではなく、どの源氏の流れを引く家かを示す記号だということです。
甲斐源氏という出自が三階菱という菱紋に結びつく構図は、紋を見れば系譜が見え、系譜をたどれば紋の意味が深まる関係にあります。
秋山氏の三階菱は飾りではありません。
家の起源、土地、武功、そして悲運までをひとつに束ねる、まさに歴史の印です。
武田二十四将・秋山虎繁(信友)と三階菱
秋山虎繁は、武田信玄に仕えた譜代家老衆で、武田二十四将の一人に数えられる甲斐の猛将です。
大河ドラマやゲームで武田家臣として知られ、秋山姓に関心を持つ入口としても語られます。
高遠城将として伊那谷を守り、のちの秋山の家紋理解へとつながる実在の重みを持つ人物だと言えるでしょう。
甲斐の猛将・秋山虎繁の事績
秋山虎繁は、武田家中でも単なる陪臣ではなく、譜代家老衆として軍事と統治の両面を担った存在です。
天文23年(1554年)頃から要衝・高遠城の城将として伊那郡代を務め、伊那谷の守衛にあたりました。
山間の通路と谷筋を押さえる高遠城は、信濃経営の結節点であり、そこを任された事実だけでも虎繁の重みが見えてきます。
後に東美濃方面でも活躍したことを含め、武田家中で重い役割を負える武将だったのです。
この人物像は、戦場で名を立てただけの猛将像に収まりません。
武田二十四将という枠組みの中で語られるのは、家中の信頼と実務能力があってこそであり、領地支配と軍事行動を同時に回せる層に属していたからです。
ゲームや大河で先に名前を知り、武将印や軍旗の意匠を調べると、三階菱が武田家臣団の記号として立ち上がってきます。
そこから秋山姓へ関心が広がる流れは自然で、人物と紋が一体で記憶される理由も見えてきます。
高遠城跡や伊那谷の史跡を歩くと、説明板に秋山伯耆守の名と菱の紋が並ぶ場面があり、現地でその結びつきを実感しやすいです。
信玄からの偏諱と『信友』の名
虎繁は信玄から『信』の偏諱を受け、秋山信友とも名乗り、伯耆守を称しました。
偏諱は主君の名の一字を与えられる行為で、血縁ではなくても主従の結びつきを明示する記号になります。
家紋が家の外形を示すなら、偏諱は人名の内部に刻まれるしるしです。
どちらも、武家社会では関係の深さを視覚的かつ言語的に伝える働きを持っていました。
秋山信友という名で呼ばれることは、単なる別名の追加ではありません。
信玄の家中において、虎繁が信任を受ける側にあったこと、そして武田の軍事秩序の中に組み込まれていたことを示します。
伯耆守の受領名も含めれば、彼は高遠城将としての実務だけでなく、武家としての格式も備えた人物だったと分かります。
名乗りの変化をたどると、人物史と家中秩序が重なって見えてくるのです。
子孫が幕府に届けた三階菱
虎繁の子孫は、幕府への家系報告、つまり諸家譜の届け出の際に、家紋として三階菱を採用したと伝わります。
ここが秋山と三階菱の関係を考えるうえで決定的です。
伝承だけでなく、歴史上の具体的な家が公的な家譜の場で三階菱を秋山の紋として届けた事実がある以上、この紋は単なる後世の連想ではありません。
家が自ら名乗った紋だからこそ、秋山=三階菱という結びつきに実体が生まれます。
この一点は、家紋を「飾り」として見るか、「家の表明」として見るかを分ける境目です。
もし家紋が単なる意匠なら、系譜の届け出にまで用いる必要はないでしょう。
だが虎繁の子孫は、幕府に向けて自家の由緒を示す場面で三階菱を選んだ。
だからこそ、現代に秋山姓の武将印や軍旗を見たとき、その菱形は歴史の記憶と直結して見えるのです。
人名、事績、紋章が一本につながる。
そこに秋山虎繁を追う面白さがあります。
もう一つの系統|大和宇陀の秋山氏と紅葉紋
大和国宇陀郡の秋山氏は、甲斐源氏系の秋山氏とは別に語られる在地領主で、吉野氏・沢氏と並んで宇陀三将の一角を占めました。
同じ秋山でも舞台が大和宇陀か甲斐かで家の成り立ちは変わり、姓だけで同族とみなせないことをこの例ははっきり示します。
宇陀松山城跡や宇陀の史跡を歩くと、地元で秋山氏が宇陀三将として語られている空気がそのまま残り、姓より土地と役割が家筋を形づくる感覚が伝わってきました。
宇陀三将としての大和秋山氏
大和国宇陀郡の秋山氏は、吉野氏・沢氏と並ぶ宇陀三将の一つです。
宇陀という地域の中で有力な在地領主として位置づけられていたからこそ、同じ秋山でも甲斐の系統とは別の歴史を持つと見なす必要があります。
第1章で確認した「多系統」という前提は、まさにこうした地名を伴う家の並立で裏づけられるのです。
現地で宇陀松山城跡や周辺の史跡をたどると、秋山氏が単なる姓の一致ではなく、土地に根を張った武士団として理解されてきたことが見えてきます。
家名は同じでも、どの地域で誰と結びつき、どの争乱の中で生きたかで系譜は別物になる。
ここを取り違えると、紋の読み取りまで曖昧になるでしょう。
神戸社の神主という由緒
宇陀の秋山氏は、伊勢神宮領・神戸社の神主を務めたとされます。
武家でありながら神事に近い職掌を担った点が、この家の性格を特別なものにしています。
戦う家であると同時に、社を預かる家でもあったからこそ、武功だけでは説明できない由緒が積み重なったのです。
職掌は家の顔を決めます。
神主という立場は、単に役目の一つではなく、その家が何を背負っていたかを示す印になる。
紋もまた、そうした由緒を視覚化する役割を持ちうるため、紅葉が伝わる系統があるという事実は偶然では片づけにくい。
家の由来と紋の意匠は、思った以上に深く結びつくものだ。
南北朝期には南朝方に与し、後に伊勢国司・北畠氏の被官となりました。
甲斐源氏との同族説も伝わりますが、系譜は甲斐系とは独立して語られることが多く、史実と伝承を分けて読む姿勢が要ります。
系図の物語性に引かれるほど、まずは大和宇陀の秋山氏としての歩みを押さえておきたいところです。
紅葉紋が示す甲斐系との違い
この大和宇陀系では、家紋に紅葉が伝わる系統があります。
甲斐源氏系の三階菱とは図案も体系も異なり、同じ秋山でも家紋の系譜が一致しないことをはっきり示します。
家紋図鑑で秋山を引いたとき、菱紋と並んで紅葉紋が載っているのを見て、出自を確かめないと自家の紋を取り違えると実感しました。
紅葉紋は、単に珍しい紋というだけではありません。
宇陀三将としての地域性、神戸社の神主という職掌、南北朝期の政治的な選択が重なった先に見えてくる紋だと考えると、図案の差がそのまま家の履歴の差になるのがわかります。
だからこそ、秋山という姓を見たらまず系統を確かめる。
そこから紋の意味が初めて立ち上がってくるのです。
自分の家の家紋を調べる方法
自分の家の家紋を調べるなら、最短なのは墓石から当たる方法です。
棹石や水鉢、墓誌には紋が刻まれていることが多く、墓参りのついでにスマホで撮って拡大すると、輪郭や欠けた線まで見えます。
家の記憶がいちばん残りやすい場所は、意外に墓所です。
墓石で手がかりをつかんだら、次は仏壇・位牌・過去帳へ進みます。
世代をまたいで使われるため古い紋が残りやすく、さらに紋付羽織や喪服、風呂敷のような冠婚葬祭の和装にも家の紋が残っていることがあります。
見つかった図像は、最後に家紋図鑑や家紋一覧で正式名称へ落とし込むと、断片が一本の線につながります。
墓石・仏壇・紋付から探す
墓参りで墓誌の紋を撮影し、帰宅後に図鑑と照合して『丸に三階菱』だと分かったことがある。
棹石や水鉢、墓誌は、ふだん意識しないまま家名の記号を残しやすい場所で、風雨にさらされても意匠の芯が消えにくい。
とくに秋山姓のように地域ごとに家筋の分かれ方が複雑な場合、まず墓所を見るだけで、甲斐系の流れに近いのか、それとも別系統なのかの見当が立ちます。
スマホ撮影が効くのは、肉眼では読みにくい細部を拡大して、丸の有無や菱の重なりまで追えるからです。
墓石の次に確認したいのが仏壇、位牌、過去帳である。
これらは世代をまたいで受け継がれるため、改まった場で使われた古い紋が残りやすい。
さらに紋付羽織や喪服、風呂敷の端に入った家紋も見逃せない。
冠婚葬祭の道具は「使う時だけ出る」ため普段は意識しないが、しまい込まれているぶん保存状態がよいことが多いからだ。
順番としては、まず墓石、次に仏壇・位牌・過去帳、そして衣類や布物を確認すると効率がよい。
本家・年長の親族に聞く
図像だけでは判別しきれないときは、本家や年長の親族に聞くのが強い。
家紋は形そのものより、どの家筋でどう伝わったかに意味があるからだ。
高齢の親族に尋ねた際、紋の呼び名だけでなく、どの土地から分かれた家なのかまで話が広がり、系統の手がかりが一気に増えたことがある。
秋山のような地名型の姓では、本家筋にしか残っていない口伝があるため、聞き取りは紋の確認と同じくらい効く。
聞くときは「何の形か」だけで終わらせず、「いつから使っていたか」「誰の代で見たか」「どの家から持ち出したか」まで確かめると精度が上がります。
名前が同じでも、分家ごとに少しずつ違う紋へ変化していることがあるので、言い切りより経緯の確認が役に立つ。
世代の記憶は断片的でも、土地の移動や婚姻の話と重ねると、紋の由来が立体的になるでしょう。
紋の名称を図鑑・一覧で照合する
撮影した画像がそろったら、家紋図鑑や家紋一覧で正式名称を詰めます。
三階菱なのか、丸に三階菱なのか、あるいは紅葉紋なのかで、印象は似ていても別物になる。
ここを曖昧にしたままだと、せっかく拾った墓石や仏壇の情報がつながらない。
形のわずかな差を見分ける作業は地味だが、系統の違いを見抜く決め手になる。
見分けがつくと、秋山家の位置づけも読みやすくなる。
本文で見た甲斐系と宇陀系のどちらに近いのか、紋の輪郭から見当をつけられるからだ。
丸が付くか付かないか、菱の重なり方が整っているかどうか、その一つひとつが家の移動や分岐の痕跡になっている。
家紋は飾りではなく、家の履歴書である。
照合まで進めてこそ、自家の形がはっきり見えてきます。
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