日本の家紋

竹中半兵衛の家紋|九枚笹と黒餅の由来

更新: 編集部
日本の家紋

竹中半兵衛の家紋|九枚笹と黒餅の由来

竹中半兵衛(本名・竹中重治、1544〜1579)は、美濃国大御堂に生まれ、斎藤龍興の稲葉山城を少ない手勢で奪ったのち半年ほどで返したという逸話で知られる美濃の智将です。後に羽柴秀吉の軍師として黒田官兵衛と並び称されたこの人物は、岐阜県垂井町や大野町のゆかりの地でも、静かな存在感を今に残しています。

竹中半兵衛(本名・竹中重治、1544〜1579)は、美濃国大御堂に生まれ、斎藤龍興の稲葉山城を少ない手勢で奪ったのち半年ほどで返したという逸話で知られる美濃の智将です。
後に羽柴秀吉の軍師として黒田官兵衛と並び称されたこの人物は、岐阜県垂井町や大野町のゆかりの地でも、静かな存在感を今に残しています。
そこでは九枚笹と黒餅という対照的な紋が並び、家の歴史を背負う笹紋と、個人の物語を背負う餅紋の両方があってこそ半兵衛らしさが立ち上がるのだと感じました。
黒餅にまつわる餅の伝承や黒田家への伝播も含め、家紋が人の縁を通じて動いていく姿を見ていきましょう。

竹中半兵衛とはどんな人物か — 秀吉を支えた美濃の天才軍師

竹中半兵衛とは、通称で呼ばれるほど名を知られた戦国期の智将で、本名は竹中重治です。
天文13年(1544年)に美濃国大御堂(現・岐阜県大野町)に生まれ、美濃斎藤氏に仕える若年から兵法と軍略で頭角を現しました。
家紋を読むうえでは、まずこの「天才軍師」という人物像を押さえる必要があります。
わずか16〜18人ほどの手勢で稲葉山城を奪った逸話、そしてのちにそれを返したと伝わるふるまいは、半兵衛を単なる武功の人ではなく、主君を諫める知略の人として際立たせます。
さらに羽柴秀吉に仕えてからは、黒田官兵衛と並び称されるほどの参謀となり、短い生涯の密度の濃さが家紋の伝承にまで影を落としました。

本名は竹中重治、美濃大御堂に生まれる

竹中半兵衛の本名は竹中重治で、通称の半兵衛はその名をやわらかく呼ぶために定着したものです。
生年は天文13年(1544年)、出生地は美濃国大御堂、現在の岐阜県大野町周辺とされます。
若くして兵法・軍略の才を示したため、早い段階から美濃斎藤氏の家臣の中でも異彩を放つ存在になりました。
岐阜市や垂井町の郷土資料を読み込むと、半兵衛の歩みは稲葉山城乗っ取りから秀吉の軍師となるまで丁寧に追える。
わずか36年の生涯にこれほど多くの逸話が詰まっているのか、と編集の手が止まりました。
家紋の物語が人物の評価と切り離せないのは、その積み重ねがあったからでしょう。

わずかな手勢で稲葉山城を奪った逸話

永禄7年(1564年)、半兵衛は人質となっていた弟を見舞うと称して、わずか16〜18人ほどの手勢で主家・斎藤龍興の稲葉山城へ入り、これを奪取したと伝わります。
城攻めというより、油断を突いた機知の一手でした。
大軍を率いた正面攻撃ではなく、少人数で城の内部に入り込む発想に、半兵衛の軍略家としての性格がよく表れています。
しかも稲葉山城はおよそ半年後に斎藤龍興へ返したとされます。
ここが重要で、武功を自分の利益に変えるのではなく、主君を諫めるための行動だったという点に美談の核があります。
岐阜県内の資料でこの逸話が繰り返し語られるのも、地元にとって半兵衛が「勝った人」ではなく「筋を通した人」だからです。
大野町の生誕地とされる場所を扱う資料に触れると、その誇りが今も静かに生きているのを感じます。

秀吉の軍師として黒田官兵衛と並び称される

のちに半兵衛は羽柴秀吉に仕え、その軍師として活躍しました。
秀吉の天下取りを支えた知将として名を残し、同じく参謀役だった黒田官兵衛と並んで『両兵衛』『二兵衛』と称されます。
ここで大切なのは、単に秀吉の家臣だったという事実ではなく、戦局を読む力が集団の中で高く評価されたという点です。
天正7年(1579年)、半兵衛は播磨・三木城攻めの陣中で病に倒れ、享年36で没したと伝わります。
早世ゆえに『夭逝の天才軍師』という像が強まり、短い生涯そのものが伝説の輪郭になりました。
人物への敬意が家紋の伝承を支えている、そう実感させるには十分な劇的さです。

竹中半兵衛の家紋は2系統 — 九枚笹と黒餅

竹中半兵衛の家紋は、九枚笹と黒餅という二系統で語られます。
前者は竹中氏に代々受け継がれた笹紋、後者は半兵衛個人の逸話に結びつく餅紋で、家の継承と一代の体験が同じ人物の家紋史の中に並び立つのが特徴です。
戦国武将の家紋一覧や家紋帖を照合すると、この二つが併記される例が多く、半兵衛の家紋像は片方だけでは捉えきれません。

代々受け継いだ笹紋『九枚笹』

九枚笹は、竹中氏が代々受け継いできた家の紋です。
三枚一組の笹葉を三組、円形に配して九枚にまとめた図案で、竹中半兵衛が新たに作った意匠ではありません。
武家にとって継承紋は単なる印ではなく、一族の系譜を外に示す目印でした。
だからこそ、九枚笹を見ると半兵衛個人というより、竹中氏という家そのものが前面に出てきます。

笹や竹の文様は、まっすぐ伸びる姿や常緑の印象から、古くから縁起の良い紋として扱われてきました。
『古事記』の天岩戸神話で天宇受賣命が笹を手に舞ったとされる場面を思い合わせると、植物の持つ神聖さも重なります。
丸に九枚笹として紹介される形もありますが、半兵衛の時代は丸のない九枚笹だったとも伝わり、図案の差まで含めて継承の歴史が見えてくるのです。

半兵衛の逸話に由来する餅紋『黒餅』

黒餅は、半兵衛が用いるようになったと伝わる紋で、別名を石餅(こくもち)といいます。
円を黒く塗りつぶしただけの簡素な意匠ですが、そこには戦場で命拾いしたという逸話が重ねられました。
懐に入れた餅に敵の矢が止まり、助かったことが幸運の印とされたわけです。
形は単純でも、物語はきわめて濃い紋だといえるでしょう。

石餅という呼び名には、石持ち、つまり所領を持つ響きが重なり、餅は満月にも通じるとされます。
単なる語呂合わせではなく、武運と繁栄の両方を引き寄せる縁起が折り重なっている点が面白いところです。
戦国武将の家紋一覧や家紋帖を複数見比べると、竹中半兵衛の項に黒餅や石餅が並び、しかも九枚笹とセットで載る例が少なくありません。
現物を追うほど、片方だけでは足りないことがはっきりします。

2系統を併用したことの意味

九枚笹と黒餅が並ぶと、半兵衛の家紋は「家を継ぐ紋」と「個人の物語を背負う紋」に分かれます。
前者は竹中氏の歴史そのもの、後者は半兵衛一代の体験に根ざした印であり、性格は明確に異なります。
ゆかりの寺社や武将印を扱う資料で両者が並んで掲げられているのを見かけるのは、半兵衛が家の名跡だけでなく、自身の戦場経験も背負っていたからです。

この二系統を併用した事実は、戦国武将の家紋が一種類に固定された記号ではないことを示します。
状況に応じて使い分けられる紋は、伝統を継ぐ武家としての顔と、稲葉山城を奪った知略や、羽柴秀吉の軍師として生きた一個人の顔を同時に浮かび上がらせます。
だから半兵衛の家紋を語るときは、九枚笹だけでも黒餅だけでも足りません。
両方を並べて見ることが、人物像へいちばん近づく方法になります。

九枚笹の図案と由来 — 三枚一組の笹葉を円形に配する紋

九枚笹は、三枚一組にした笹の葉を三組、円を描くように配して合計九枚に組み上げた図案です。
葉先が外を向き、根元が中心へ集まるため、形のまとまりがよく、見た目にもすっきりした笹紋として映ります。
竹中氏の継承紋として知られるのは、こうした配置の美しさと、武家の系譜をひと目で示す記号性が重なっているからでしょう。

三枚一組の笹葉を九枚配する構成

九枚笹の核にあるのは、三枚一組の笹葉を三組そろえ、全体を円形にまとめる構成です。
九枚をただ並べるのではなく、葉先を外へ向けて放射状に開かせることで、中央に重心が生まれ、外周には輪郭の明快さが出ます。
家紋は小さな図案ほど形の崩れが目立ちますが、九枚笹はその点で均整が取りやすく、武家紋としての格調も保ちやすい。
複数の家紋データベースで画像を見比べると、同じ九枚笹でも葉の反りや開き方に少しずつ差があり、図案の揺れそのものが家紋研究の面白さだと感じます。

笹紋一覧を眺めると、十五枚笹や根笹のように、笹をどう束ねるかで印象が大きく変わることがわかります。
そのなかで九枚笹は、三枚×三組という数え方がはっきりしていて、視覚的にも理解しやすい紋です。
竹中氏がこの形を受け継いだ背景には、単なる植物文様以上に、家のまとまりや連続性を示す役割があったと見るのが自然ではないでしょうか。
すっきりした構成だからこそ、見る者の記憶にも残りやすいのです。

丸に九枚笹と丸なし九枚笹の時代差

一般に竹中半兵衛の家紋として紹介されるのは丸に九枚笹です。
これは九枚笹の外側を細い輪、つまり丸で囲った形で、図案全体をきりっと締める効果があります。
ただし、丸に九枚笹は江戸に入ってからの美濃竹中氏の紋ともいわれ、半兵衛の時代は丸のない九枚笹だったとも伝わります。
ここには、同じ家紋でも時代によって表し方がずれるという、家紋史らしい難しさがよく表れています。

図案外周伝わる時代感
九枚笹なし半兵衛の時代と伝わる
丸に九枚笹細い輪(丸)あり江戸に入ってからの美濃竹中氏の紋ともいわれる

この違いは、単なる飾りの有無ではありません。
丸が入ると家紋は一段と封じられた印象になり、武家の格式や統一感が強まります。
逆に丸なしの九枚笹は、葉の配置そのものが前面に出るため、笹葉の組み方の妙がより直接に見えてきます。
つまり、半兵衛の名で語られる紋を読むときは、固定された一図ではなく、丸ありと丸なしのあいだにある時代差まで含めて見る必要があるのです。

笹紋と竹紋の呼び分け

笹紋と竹紋は、もともと同じ竹・笹という植物を文様化したもので、家紋の世界では厳密に区別されません。
おおむね大ぶりに描いたものを竹紋、小ぶりに描いたものを笹紋と呼び分ける程度で、九枚笹は小ぶりの葉を組んだ笹紋に分類されます。
要するに、名称の違いよりも、どう見せるかの違いが先にあるわけです。

この呼び分けを押さえておくと、九枚笹がなぜ竹中氏の紋としてしっくり来るのかも見えやすくなります。
竹と笹は同じ植物の系譜に属しながら、図案化すると硬さと軽さ、勢いと繊細さのバランスが変わります。
九枚笹はその中間で、家の由緒を静かに語る形だと言えるでしょう。
半兵衛個人の発案ではなく、竹中氏が代々受け継いだ紋を引き継いだものだと考えると、この図案が背負っている意味はさらに鮮明になります。

笹・竹紋の意味 — 生命力と神聖さの象徴

笹・竹紋は、まっすぐ天に伸びる姿と、寒さの厳しい冬でも青々と葉を保つ常緑性によって、古くから強い生命力の象徴とされてきました。
家の繁栄や子孫の伸長を願う武家にとって、笹や竹はただの植物ではなく、成長と持続の願いを重ねやすい文様だったのです。
神社や正月飾りで清浄や祝いの象徴として目にする機会が多いぶん、笹紋に込められた意味も自然に伝わってきます。

まっすぐ伸びる生命力の象徴

竹・笹が好まれた理由は、見た目の単純さにあります。
枝ぶりはすっきりしていて、幹は途中で大きく曲がらず、上へ上へと伸びていく。
その姿が、立身出世や家の繁栄を連想させるのはごく自然でしょう。
家紋の植物文様を調べていると、竹・笹をそうした解釈に結びつける説明に繰り返し出会い、武家が代々の紋として採った背景も腑に落ちます。
冬を越えても葉を落としにくい点も見逃せません。
寒中でも青さを保つ常緑は、勢いが一時で終わらないことの象徴であり、家名を絶やさず続けたいという願いと相性がよいのです。
笹紋が九枚笹のような意匠で表されると、葉の数や配置に整った緊張感が生まれ、繁栄を祈る家紋らしい格も備わります。

古代からの神聖視と神事

竹・笹は、古代から神事に用いられ、清浄や厄除けの意味を帯びる神聖な植物として扱われてきました。
神域の飾りや儀礼の場で笹が選ばれるのは、枝葉が清々しく、境を分ける役割を果たしやすいからです。
こうした背景があるため、笹紋は単なる植物モチーフではなく、清めの感覚を帯びた紋として受け取られます。
『古事記』の天岩戸神話では、天照大御神が岩戸に隠れた際、芸能の神とされる天宇受賣命が束ねた笹を手に持って舞ったと伝わります。
ここでは笹が、神を招き出す場面を支える象徴として働いており、植物でありながら霊的な役割を担っているのです。
神話の記憶が残るぶん、笹紋は古さと格を同時に備えた意匠になるのでしょう。

松竹梅と縁起の良さ

さらに竹は松竹梅のひとつに数えられ、古くから縁起物として親しまれてきました。
松が不変、梅が先駆けの花であるのに対し、竹はしなやかさと伸びやかさを担い、三者がそろうことで吉祥の意味がより立体的になります。
笹や竹を家紋に選ぶことは、めでたさを飾りとして借りるだけでなく、家を長く支える気配を紋に刻むことでもあるのです。
生命力、神聖さ、縁起の良さが重なると、笹紋の印象は一段と強くなります。
だからこそ武家の家紋として相応の格があり、竹中氏がこれを代々の紋としたことにも納得がいくでしょう。
清浄を願う場で笹が映える感覚を思い出すと、その選択はたしかに筋が通っています。

黒餅(石餅)の由来 — 矢を防いだ逸話と幸運の印

黒餅(石餅)は、半兵衛の家紋の一系統として伝わる、黒く塗りつぶした円だけで成るきわめて単純な図案です。
見た目は驚くほど素朴ですが、その背後には、戦場での矢を防いだという伝承と、武家の所領を重ねる縁起の読みが折り重なっています。
さらに『餅』を満月の望月に通じるものとして捉える解釈もあり、円形の一紋に複数の意味を込めた例として見ておきたいところです。

矢を防いだとされる逸話

黒餅が半兵衛の紋になった由来として語られるのが、懐に入れていた餅に敵の矢が当たり、そのおかげで命拾いしたという伝承です。
餅そのものが身代わりのように働いた、という筋立てがわかりやすく、偶然の生還がそのまま家の象徴へ転じたことになります。
戦場では、一つの出来事が紋や旗に長く残ることがある。
黒餅はその典型でしょう。

この話を読み比べると、単なる武勇談ではなく、災厄を退けた事実を形にして残そうとする感覚が強く出ています。
指物旗や武将グッズで黒餅を見ると、図案はあまりに単純なのに、由来を知っているかどうかで印象がまるで変わるのです。
丸ひとつで済む紋に、命拾いの記憶を封じ込めたわけで、そこに半兵衛の紋としての重みがあります。

『石持ち=所領を持つ』の縁起

黒餅は別名を石餅(こくもち)といい、その読みが『石持ち(こくもち)』、つまり武家が所領を持つことに通じるため、縁起の良い紋とされました。
武家にとって所領は家の存立を支える基盤ですから、単なる語呂合わせに見えても、実際にはかなり切実な願いが込められているのです。
家が続くこと、土地を保つこと、その二つが重なるところにこの紋の実利的な魅力があります。

読みの近さがそのまま吉兆になるのは、家紋の世界では珍しくありません。
石高を連想させる『石持ち』という響きは、戦場での幸運だけでなく、戦後に家を守る力まで願う発想につながります。
おすすめです、と言いたくなるほど、短い音の中に願いが濃く詰まっているのです。

ℹ️ Note

黒餅の解説でよく共通しているのは、矢を防いだ逸話と『石持ち=所領を持つ』の語呂合わせです。どちらも、丸い一紋に偶然と願望を同時に載せる仕組みとして読めます。

黒餅という図案の単純さ

黒餅の図案は、円をまるごと黒く塗りつぶしただけです。
白く描けば白餅、輪郭だけにすれば石持ちになるように、塗り分けひとつで呼び名が変わるのが面白いところでしょう。
形そのものはきわめて少ないのに、見分けの差が意味の差に直結するため、家紋としてはむしろ覚えやすい部類に入ります。

しかも『餅』は、満月を意味する『望月』の『望』にも通じるとされます。
ここで円形の図案は、命拾いの幸運、所領を持つ縁起、満月の円満という三つの読みを重ねる受け皿になるのです。
黒一色の丸にそこまで託せるのかと思いますが、まさに託せるのですね。
単純だからこそ、意味が増幅する。
黒餅は、そのおもしろさをよく示しています。

黒田官兵衛との縁と石餅紋の伝播

竹中半兵衛と黒田官兵衛は、ともに秀吉の参謀として「両兵衛」と並び称された盟友であり、その縁は戦場の協力関係にとどまらず、家紋の伝承にも広がって語り継がれてきました。
半兵衛の石餅紋が黒田家へ伝わったとされる話は、人物同士の信頼が家の象徴にまで及んだ例として読むと、物語の輪郭が見えやすくなります。

松寿丸を救ったとされる逸話

天正6年(1578年)頃、黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉された際、織田信長は官兵衛が裏切ったと疑い、人質だった官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を命じたと伝わります。
ここで半兵衛は官兵衛の無実を信じ、松寿丸を密かに匿って助けたとされます。
生死の境で人質を救い出す判断には、単なる情の深さだけでなく、官兵衛への信頼を貫く姿勢がにじみます。
両兵衛の結びつきが、ただの同盟ではなく、命を預け合う関係として語られる理由はここにあるのでしょう。

この逸話は、後の黒田家にとっても象徴的でした。
主君家と家臣家という枠を超え、半兵衛の行為が黒田家の記憶の中で恩義として定着したからです。
松寿丸をめぐる話は、黒田長政という後継者の出発点を支えた物語でもあり、家の存続そのものに関わる出来事として受け止められてきたのだと思われます。

黒田家へ伝わった石餅紋

その恩義が、家紋のかたちで語られるのが石餅(黒餅)紋です。
黒田官兵衛・長政の家紋を調べると、藤巴紋とともに餅系の紋が挙げられる資料に出会い、竹中家との縁の物語が家紋の側からも裏づけられているように感じられます。
竹中家の象徴だった石餅紋が黒田家にも伝わり用いられたとされるのは、人物の往来だけでなく、意匠までもが移っていったからであり、家紋が人と人との縁を介して別の家へ伝播した例として読みごたえがあります。

家紋はしばしば血筋だけでなく、恩義や婚姻、主従の記憶によっても動きます。
石餅紋が黒田家に受け継がれたという伝承は、その典型として理解すると腑に落ちるでしょう。
図柄そのものは小さくても、背後には半兵衛と官兵衛の結びつき、そして黒田家が抱いた感謝の重みが折り重なっています。

伝承の異同と留保

もっとも、松寿丸の救出の経緯や石餅紋が黒田家に伝わった詳細には、史料により異同や脚色がある点に注意が必要です。
複数の資料を読み比べると、松寿丸救出の細部が少しずつ異なり、家紋の伝承が後世に語り継がれるなかで膨らんでいった様子もうかがえます。
だからこそ、この話を読むときは、逸話としての美しさを楽しみつつ、史実の確度は別に見極める姿勢が求められるのです。

ℹ️ Note

伝承はしばしば、人の感謝や尊敬を受けて形を変えます。半兵衛の石餅紋が黒田家に結びつく話も、そうした記憶の堆積として眺めると、単なる家紋解説を超えた厚みが見えてきます。

竹中氏のその後 — 重門と竹中氏陣屋、江戸期の家紋継承

竹中氏のその後は、半兵衛の死でいったん途切れかけた家の流れを、嫡子・竹中重門がつないだところから見えてきます。
父の早世を受けて家督を継いだ重門は、菩提山城に代わる拠点を整え、戦国の武名をそのままではなく、江戸期の家として生き残る形へ組み替えていきました。
家紋の継承もまた、その変化を静かに物語っています。

嫡子・竹中重門への家督継承

半兵衛が三木城攻めの陣中で没した後、その家督は嫡子・竹中重門が継いだ。
父の早世は家にとって大きな断絶になりかねない出来事ですが、若くして重門が前面に立ったことで、竹中家は武功の記憶だけでなく、家そのものを次代へ渡す筋道を保てました。
ここで大切なのは、重門の継承が単なる相続ではなく、半兵衛の名を後世へ残すための実務だったという点でしょう。
血筋をつなぐだけでなく、居所、所領、家紋まで含めて受け継ぐ必要があったのです。

竹中氏陣屋と旗本としての存続

重門は、それまでの居城だった菩提山城に代えて、麓に竹中氏陣屋(岩手陣屋、現在の岐阜県垂井町岩手)を構えたとされる。
築造は天正16年(1588年)頃と伝わり、山城から平地の陣屋へ軸足を移したことが、時代の変化をよく示しています。
垂井町に残る竹中氏陣屋跡の櫓門や水堀を扱う資料に触れると、半兵衛の死後も竹中家がこの地に根を張り続けたことが、抽象的な家の歴史ではなく、目に見える遺構として伝わってきます。
城を構える理由が、攻めるためから守り継ぐためへ変わったのである。

関ヶ原の戦い(1600年)で重門は当初西軍に属したものの、戦後におよそ6000石の所領を安堵され、江戸幕府のもとで旗本として家を存続させた。
大名として大きく伸びる道ではなくとも、所領を保ち、家を絶やさず、半兵衛の血筋を江戸時代へつなぐ道を選び取ったわけです。
戦場で名を上げた父に対し、子は制度の中で家を残した。
その対比に、この家の第二の始まりがあるのではないだろうか。

江戸期に継がれた丸に九枚笹

江戸期の美濃竹中氏を示す家紋として知られるのが、丸に九枚笹です。
半兵衛の時代は丸のない九枚笹だったとも伝わるため、ここには単なる図柄の変化以上の意味が宿っています。
江戸期の旗本竹中氏の家紋として丸に九枚笹が紹介される資料を見ると、半兵衛時代の意匠との違いが、戦国の家から旗本の家へ移る時間の層を映しているように感じられます。
家紋は飾りではなく、誰の家がどの形で続いたのかを示す印であり、竹中家ではその印が存続の証になったのです。

時期家紋の形位置づけ読み取れる意味
半兵衛の時代九枚笹丸のない形戦国期の竹中家を示す意匠
江戸期の美濃竹中氏丸に九枚笹旗本竹中氏の家紋家の継続と定着の印

この記事をシェア

関連記事

kamon

可児才蔵の家紋|笹の才蔵と三枚笹の由来

日本の家紋

可児才蔵の家紋|笹の才蔵と三枚笹の由来

可児才蔵は、戦国時代に名をはせた槍の名手で、本名を可児吉長という武将です。1554年に美濃国可児郡に生まれ、斎藤龍興から福島正則まで八人の主君を渡り歩いた経歴が、その生涯の輪郭をはっきり示しています。

kamon

後藤又兵衛の家紋『下がり藤』とその由来

日本の家紋

後藤又兵衛の家紋『下がり藤』とその由来

後藤又兵衛(後藤基次)は、永禄3年(1560年)に播磨で生まれ、元和元年(1615年)に大坂夏の陣で戦死した戦国末期の武将である。大河ドラマや戦国ゲームで旗や具足に描かれた藤紋を見て、「これは何の紋だろう」と気になったことがあるなら、その答えは下がり藤です。

kamon

結城秀康の家紋|三つ巴と桐紋の由来

日本の家紋

結城秀康の家紋|三つ巴と桐紋の由来

結城秀康は、徳川家康の次男として生まれ、豊臣秀吉の養子として羽柴秀康を名乗り、さらに結城晴朝の養子となって結城家を継いだ武将である。1574年から1607年までの短い生涯に、徳川・豊臣・結城という三つの家をまたいだ経歴が、そのまま家紋の姿に刻まれている。

kamon

上杉景勝の家紋|竹に雀と五七桐の由来

日本の家紋

上杉景勝の家紋|竹に雀と五七桐の由来

上杉景勝は、越後の長尾政景の次男として生まれ、母方の伯父である上杉謙信の養子となった戦国武将である。御館の乱で上杉景虎を破って山内上杉家17代当主となり、のちに豊臣政権の五大老を務め、関ヶ原後は米沢30万石の藩主となった。 その景勝を語るうえで外せないのが、代表紋の竹に二羽飛び雀、別名上杉笹だ。