日本の家紋

宮崎さんの家紋|茗荷・桔梗・鳥居に鳩の由来

更新: 編集部
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宮崎さんの家紋|茗荷・桔梗・鳥居に鳩の由来

宮崎は、全国およそ66位・推計24万人前後にのぼる大姓で、各地の「宮の崎」という地名から別々に生まれた多系統の姓である。だから「宮崎家の家紋はこれ」と一つに決めることはできず、家ごとに紋が違うのが前提になる。

宮崎は、全国およそ66位・推計24万人前後にのぼる大姓で、各地の「宮の崎」という地名から別々に生まれた多系統の姓である。
だから「宮崎家の家紋はこれ」と一つに決めることはできず、家ごとに紋が違うのが前提になる。
親族の集まりで「うちの紋は茗荷だ」「いや桔梗だ」と食い違い、家紋図鑑で宮崎を引いたら候補がずらりと並んで戸惑った、という感覚はここに直結する。
宮崎家で実際に見られる代表紋は、丸に抱き茗荷、丸に桔梗、鳥居に鳩一羽の三系統で、紋そのものが家の来歴を示す地図になっている。
新潟県朝日町宮崎を本拠とした藤原北家利仁流の宮崎家には前二者が結びつき、宮崎県の紀姓・藤原氏族で八幡社神主をつとめた宮崎家には鳥居に鳩が対応する。
茗荷紋は冥加に通じる縁起を帯び、摩多羅神の神紋として広まり、桔梗は更に吉の字義を持つ武家紋として土岐氏や明智光秀を思わせる。
鳥居に鳩は神域の結界と八幡神の使いを重ねた信仰紋で、三つの紋には縁起、武運、信仰という異なる物語が宿る。
宮崎太郎(1132-1195)は越中宮崎城を拠点とした宮崎党の棟梁で、木曾義仲に従って倶利伽羅峠の戦いで山中奇襲を献策した武将だ。
地名由来の宮崎が武家や神職へ分岐していった歴史をこの人物像からたどり、自家の紋は墓石、仏壇、紋付、本家への聞き取りで確かめてみてください。

宮崎さんの家紋には『これ一つ』という正解はない

宮崎は全国およそ66位、推計24万人前後の大姓で、同じ名字でも出自の道筋がひとつではありません。
宮の崎、つまり神社の近くの岬や丘を指す地名に由来するため、各地で別々の家が宮崎を名乗り、家紋も一枚岩にはならないのです。
法事で本家の墓石に刻まれた紋を見て「これは何という紋か」と尋ねたところ、親戚ごとに答えが食い違い、かえって混乱したことがありました。
家紋図鑑で宮崎を引くと候補がずらりと並び、姓だけでは絞れない現実が見えてきます。

全国66位・約24万人という大姓の背景

宮崎は、佐藤や鈴木のように一族から枝分かれした血縁型というより、各地の地名から別々に発祥した地名型です。
だからこそ、同じ宮崎でも祖先の土地、役目、身分の手触りがそろわず、家紋の選び方にも幅が出ます。
全国およそ66位・推計24万人前後という広がりは、この多系統性をそのまま映しているとも言えるでしょう。

読みもひとつではありません。
主流は「みやざき」ですが、「みやさき」「みさき」もあり、発音の揺れ自体が、ひとつの家筋に収まりきらない来歴を示しています。
名前の広がりが広いほど、紋を単純化して読んではいけない。
そこが宮崎姓の面白さです。

『地名由来の苗字』は家紋が一つに定まらない

宮崎は『宮の崎』、すなわち神社のそばにある崎、岬や山、丘を意味する地名です。
全国に同名地名が複数あるため、それぞれの土地で別の家が宮崎を名乗り始めました。
神職に結びついた家もあれば、武家として土地の名を負った家もあり、出発点が違えば受け継ぐ紋が違うのは自然です。
紋は家の名札ではなく、来歴を映す印として読むほうが筋が通ります。

実際、宮崎の代表紋には系統差がはっきり出ます。
新潟県下新川郡朝日町宮崎を本拠とした藤原北家利仁流の宮崎家は、丸に抱き茗荷や丸に桔梗を中心に、丸に木瓜、丸に片喰、丸に井桁、丸に違い矢なども用いました。
茗荷紋は音が「冥加」に通じる縁起紋で、桔梗紋は「更に吉」の字義を持つ秋の七草として武家紋の性格を帯びます。
だが、宮崎県の紀姓・藤原氏族で八幡社の神主をつとめた宮崎家では、鳥居に鳩一羽や鳥居に対い鳩が中心になります。
神域の結界である鳥居と、八幡神の使いとされる鳩を重ねた紋は、「宮の崎=神社のそば」という語源とよく響き合います。

系統主な由来代表的な家紋読み取れる背景
藤原北家利仁流の宮崎家新潟県下新川郡朝日町宮崎丸に抱き茗荷、丸に桔梗、丸に木瓜、丸に片喰、丸に井桁、丸に違い矢武家としての系譜、縁起や武運を意識した紋選び
宮崎県の紀姓・藤原氏族の宮崎家八幡社の神主鳥居に鳩一羽、鳥居に対い鳩、丸に井桁、左三つ巴、丸に違い鷹の羽神職との結びつき、神域と鳩の組み合わせ
地名由来の宮崎一般各地の宮の崎単一ではない土地ごとに起源が分かれるため固定しにくい

まず確認すべきは『自分の家の系統』

宮崎家の家紋を知りたいなら、最初にやるべきことは「宮崎だからこの紋」と決めつけることではありません。
まずは自分の家がどの系統かを確かめ、その家にどの紋が伝わっているかを追うことです。
墓石、仏壇、位牌、過去帳、紋付の和装、本家への聞き取りへと順にたどれば、図鑑に並ぶ候補の中からかなり絞れてきます。
撮影した図像を家紋一覧と見比べて正式名称まで詰めると、曖昧さはぐっと減るでしょう。

越中の宮崎城を拠点とした宮崎党のように、地名由来の宮崎が武家として各地で分岐した歴史も、この見方を裏づけます。
棟梁の宮崎太郎、長康/重頼(1132-1195)は木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いで山中奇襲を献策したと伝わります。
血縁の広がり、土地の違い、役目の違いが重なれば、紋が一つに収まらないのは当然だとわかるはずです。
問いを少し変えてみてください。
答えは、そのほうが正確になります。

宮崎家を代表する3つの家紋

宮崎家の家紋は、姓だけで一本化できないことをいちばんはっきり示す手がかりです。
代表紋は大きく鳥居に鳩一羽、丸に抱き茗荷、丸に桔梗の三系統にまとまり、まずこの地図を押さえるだけで、目の前の紋が武家系なのか神職系なのかを読み分けやすくなります。
墓地で複数の宮崎家の墓石を見比べると、茗荷の家、桔梗の家、鳥居に鳩の家が並び、同じ宮崎でも系統が分岐している現実が見えてきます。

宮崎家の代表紋一覧

紋名対応する系統由来の核主な使用地域
鳥居に鳩一羽紀姓・藤原氏族の宮崎家鳥居と八幡神の使いである鳩を組み合わせた信仰紋宮崎県
丸に抱き茗荷藤原北家利仁流の宮崎家茗荷の音が冥加に通じ、神仏の加護を象徴する縁起紋新潟県下新川郡朝日町宮崎
丸に桔梗藤原北家利仁流の宮崎家秋の七草で「更に吉」を重ねる吉祥の意匠新潟県下新川郡朝日町宮崎

この表を先に置くのは、宮崎が全国およそ66位、推計24万人前後の大姓であり、宮の崎という地名由来の姓が全国各地で別々に生まれたからです。
読みも「みやざき」が主流ですが、「みやさき」「みさき」もあるため、家紋まで含めて見ないと系統の見当がつきません。
家系図の資料で宮崎の使用紋一覧を見たとき、系統ごとに紋群がきれいに分かれていると気づいたが、その感覚は墓石を実地で見たときにもそのまま裏づけられました。

系統ごとに紋が分かれている

藤原北家利仁流の越中宮崎家では、丸に抱き茗荷、丸に桔梗、丸に木瓜、丸に片喰、丸に井桁、丸に違い矢がまとまって現れます。
新潟県下新川郡朝日町宮崎を本拠とした利仁流系の宮崎を読むとき、この紋群は強い手がかりになるでしょう。
とくに茗荷紋は、戦国期以後に天台宗の摩多羅神の神紋としても広がり、日光東照宮の祭礼神輿を通じて知られるようになったため、単なる植物意匠ではなく、信仰と家の加護を重ねた図柄として理解すると見え方が変わります。

対して、宮崎県の紀姓・藤原氏族の宮崎家には、鳥居に鳩一羽、鳥居に対い鳩、丸に井桁、左三つ巴、丸に違い鷹の羽が見られます。
鳥居に鳩は神域の結界である鳥居と、武神・八幡神の使いとされる鳩を組み合わせた信仰紋で、「宮の崎=神社のそば」という姓の語源とも響き合います。
丸に井桁や左三つ巴が混じるのも、八幡社の神主をつとめた神職家の系譜を思わせる配置だといえるでしょう。

なぜ複数の紋が併存するのか

宮崎家で紋が割れるのは、武家系と神職系で生活の場も役割も違ったからです。
越中の宮崎党は平安末期の有力武士団で、棟梁の宮崎太郎、長康/重頼(1132-1195)は木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いで山中奇襲を献策したと伝わります。
武功を支える家では、武運や加護を連想させる桔梗や茗荷が選ばれやすく、神社に結びつく家では鳥居と鳩が前景化しやすい。
紋は家の履歴書のようなものです。

ただし、統計的に多い紋があっても、それがその家の答えとは限りません。
だからこそ、墓石で確認し、仏壇や位牌、過去帳、紋付など和装へ進み、本家に聞き取り、撮影した図像を家紋一覧と照合していく順番が役に立ちます。
宮崎は同名地名が複数あり、別々の家が宮崎を名乗った姓でもある。
複数の紋が併存するのは、むしろ自然な帰結なのです。

最も知られる『茗荷紋』とその由来

茗荷紋は、ショウガ科の茗荷の花を図案化した植物紋で、藤原利仁流の宮崎家が用いた代表紋の一つです。
とりわけ丸に抱き茗荷は、二つの茗荷を向かい合わせて抱くように構成し、外輪で囲んだ端正な意匠で、紋付や墓石に現れると左右対称の落ち着いた印象を強く残します。
親戚の紋付で抱き茗荷を見つけたときは、ただの植物紋にしか見えませんでしたが、『冥加』の語呂を知った瞬間に意味の層が変わりました。
形の整い方と縁起のよさが重なるからこそ、家紋として長く選ばれてきたのだと思います。

丸に抱き茗荷とはどんな紋か

丸に抱き茗荷は、茗荷の輪郭を単純化した図を二つ向かい合わせ、さらに外側を円で締めた家紋です。
植物紋の中でも視認性が高く、線が少ないのに存在感があり、遠目にも判別しやすいのが利点でしょう。
宮崎家で用いられた茗荷紋の代表格として見ると、単なる意匠ではなく、家の印をどこに置いても崩れにくい実用性まで備えています。
墓石や紋付で目にすると、派手さよりも端正さが前に出る。
そこにこの紋の品のよさがあります。

『冥加=神仏の加護』という縁起

茗荷が好まれた核心は、その音が『冥加』に通じる点にあります。
冥加とは、知らず知らずのうちに神仏から賜っている目に見えない加護のことですから、神社ゆかりの姓である宮崎と響き合う縁起のよさがあるのです。
植物としての茗荷が、音の連想によって守りや恵みの象徴へと変わる。
この転換が家紋の面白さで、見た目の整いだけでなく、家の由来や願いまで一緒に背負わせる仕組みになっています。
天台宗の寺で神輿や提灯に茗荷紋を見かけると、家紋が信仰の場に溶け込む感覚がはっきり伝わってきます。

摩多羅神信仰と日光東照宮での広まり

茗荷紋は戦国時代以後、天台宗の摩多羅神の神紋として用いられ、信仰と結びついて広まりました。
装飾として選ばれたのではなく、家の信心を映す印として受け取られた点が重要です。
日光東照宮に摩多羅神が祀られ、その祭礼の神輿すべてに茗荷紋が付いたことは、この紋の普及を押し上げた決定的な場面でした。
神社や寺で広く使われるようになった経緯をたどると、宮崎家で茗荷が選ばれやすかった理由も自然に見えてきます。
信仰、縁起、家の印が一本の線でつながる。
茗荷紋はその結節点なのです。

もう一つの代表紋『桔梗紋』

桔梗紋は、秋の七草の一つである桔梗の花をかたどった花紋で、利仁流の宮崎家がもう一つの代表紋として用いた意匠です。
丸に桔梗は五弁の花が星形に開く姿をそのまま図案化しており、輪郭が明快で、武家らしい端正さが際立ちます。
大河ドラマで明智光秀の桔梗紋を見て、自家の宮崎の桔梗とのつながりを調べ始めた、という入口はよくわかります。
墓石の桔梗紋を写真に撮って図鑑と照合したとき、五芒星の晴明桔梗とは別物だと気づいて混乱が解けるのも、この紋が持つ奥行きゆえでしょう。

丸に桔梗の形と『更に吉』の意味

桔梗が吉祥紋として受け取られた理由は、まず花の姿が美しいだけでなく、『桔梗』の字義に『更に吉』が重ねられてきた点にあります。
花の名と縁起の良さが結びつくと、意匠は単なる植物図案を超え、持ち主の願いを映す記号になります。
輪郭がはっきりした丸に桔梗は、衣服や旗指物に載せても崩れにくく、見た目の端正さと意味の強さを両立する紋でした。

この「見た目の整い」と「言葉の吉兆」が重なるところが、桔梗紋の強みです。
花の一瞬の開き方を五弁で切り出すため、華やかでありながら派手に流れすぎず、武家の家紋としても庶民の意匠としても受け入れられやすかったのでしょう。
縁起を身につける感覚が、桔梗を広く押し上げたのだと思います。

土岐氏・明智光秀と武家の桔梗

桔梗は美濃の土岐氏族の代表紋として知られ、そこから明智光秀の桔梗紋へと連想がつながります。
戦国の場で光秀の旗や印に桔梗が現れると、花紋でありながら武運を示す符号にも見えてきます。
土岐氏には、桔梗の花を兜に挿して戦勝を得たという伝承や、別名オカトトキが土岐に通じるという由来も伝わり、紋の背後にある土地の記憶を濃くしています。

ℹ️ Note

宮崎家の桔梗紋を読むときは、見た目の美しさだけでなく、土岐氏系の武家文化が重ねた意味まで拾うと理解が深まります。

ここで大切なのは、桔梗紋が単なる「花の形」ではないことです。
土岐氏や明智光秀に結びつくことで、桔梗は武家の由緒、戦いの記憶、家の誇りを背負う紋になりました。
宮崎家の桔梗紋も、その系譜の中に置くと立ち位置がはっきりします。

晴明桔梗(五芒星)との混同に注意

ただし、安倍晴明の晴明桔梗(五芒星)は、植物の桔梗紋とは別系統の意匠です。
こちらは陰陽五行の木火土金水の相克を表す呪符由来で、花を写した丸に桔梗とは成立の考え方が異なります。
形が似て見えるため検索では混ざりやすいですが、同じ「星形」だからといって同列にはできません。

墓石の桔梗紋を図鑑と照合したときに混乱がほどけたのは、この違いを押さえたからでした。
晴明桔梗は術的・呪的な系統、桔梗紋は土岐氏系の花紋、と切り分けて見るだけで、宮崎家の紋の意味がずっと読みやすくなります。
検索結果の印象に引きずられず、土岐氏の流れにある桔梗として受け取るのが筋でしょう。

神職の系統に伝わる『鳥居に鳩』紋

鳥居に鳩紋は、紀姓で八幡社の神主をつとめた宮崎家に伝わる、信仰の輪郭がはっきりした家紋です。
神域と俗界を隔てる結界としての鳥居の上に、武神・八幡神の使いである鳩を置くため、家の役割と信仰の向きがそのまま形になっています。
鳥居に鳩一羽、鳥居に対い鳩といった変化もあり、意匠の違いがそのまま系譜の細やかさを物語ります。

鳥居紋・鳩紋それぞれの意味

鳥居紋は、ただ神社を示すだけの記号ではありません。
神域と俗界を分ける結界そのものを図案化したもので、そこに鳩を重ねると、境界を守る象徴と八幡信仰が一つの画面に収まります。
八幡神の使いとされる鳩は、鎌倉期までには神の化身や使いとして受け取られており、武の象徴としても通用しました。
だからこそ、鳥居の上に鳩を据える構図は、信仰の表明であると同時に、神職家としての立場を明快に示す紋になるのです。
八幡宮を訪ねて社殿の鳩の意匠や神紋を見たとき、その意味が平面ではなく立体で迫ってきます。

『宮の崎=神社のそば』という姓の語源と符合

宮崎という姓そのものが、『宮の崎』、つまり神社の近くの崎を意味します。
神社に奉仕した家が鳥居と鳩を選んだのは偶然ではなく、姓の語源、職掌、紋の意匠がきれいに呼応しているからです。
古い宮崎家の墓所で鳥居紋を見つけたとき、名前と紋が別々の情報ではなく、同じ由来を別の形で示していると腑に落ちます。
紋は飾りではない。
家がどこに立ち、何を担ってきたかを、黙って伝える証拠になるのです。

対い鳩・違い鷹の羽など神職家の併用紋

この神職系の宮崎家では、鳥居に鳩だけでなく、丸に井桁、左三つ巴、丸に違い鷹の羽も併用されました。
ひとつの家に複数の紋があると、統一感が失われるように見えるかもしれませんが、実際には役割の違いを丁寧に刻む働きがあります。
鳥居に鳩は信仰の中心を示し、井桁や巴、鷹の羽は家中での使い分けや系統の重なりを映します。
しかも同じ宮崎でも、利仁流の茗荷・桔梗とは紋群が異なり、系統差が一目でわかるのが面白いところです。

神職家の紋は、単独で読むより、組み合わせで読むほうが輪郭が鮮明になります。
対い鳩や違い鷹の羽を含めて眺めると、この家が八幡社に結びついた奉仕の系譜を、いくつもの紋で立体的に守っていたことが見えてきます。
こうした併用は、家の歴史を一枚の紋に押し込めず、必要に応じて複数の記号で補強する知恵でもあるでしょう。

宮崎家のルーツと越中宮崎党

宮崎姓は、各地の「宮の崎」と呼ばれる地形や社地の近くから生まれた地名由来の姓です。
同じ名の地名が全国に複数あったため、別々の家がそれぞれ宮崎を名乗ることになり、武家系と神職系が並び立つ土台が早くからできました。
姓の起点が一つではない以上、系譜も一枚岩にはならない。
そこにこの名字の面白さがあります。

地名『宮崎』はどう生まれたか

「宮の崎」は、神社のそばにある岬や丘、突き出した地形を指す呼び名として残りました。
宮が置かれた場所の名がそのまま人の名になり、そこに住む一族が宮崎を称したわけです。
地名が先で姓が後に来るので、同じ宮崎でも出自の違う家が同時多発的に生まれるのは自然な流れでしょう。

この見方を取ると、宮崎姓が単なる家名ではなく、土地と信仰の結びつきを示す記号だったことが見えてきます。
神社のある高まりは、村の境目や見晴らしの利く場所であることが多く、名乗りの拠点としてもわかりやすい。
だからこそ、武家系の宮崎と神職系の宮崎が同じ姓を持ちながら別の祖先譜を引く、という状態が起こったのです。
理由はシンプル。
地名が複数あったからです。

越中宮崎党と宮崎太郎

越中、いまの富山県朝日町にある宮崎城を拠点とした宮崎党は、平安末期の北陸道で力を持った在地武士の集団でした。
その棟梁が宮崎太郎(長康あるいは重頼、1132年-1195年)で、越中宮崎城主として地侍を束ねた存在です。
実際に越中宮崎城跡を歩くと、城が大規模な石垣や天守で威圧するのではなく、北陸道の動きを押さえる要衝に身を置いていたことが伝わってきます。

宮崎太郎は木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いでは山中からの夜襲を献策したと伝わります。
義仲が横田河原の戦いで大勝した後、北陸道の武士団が次々と義仲軍へ合流していく流れの中で、宮崎党も重要な戦力になりました。
義仲ゆかりの史跡で宮崎太郎の名を見つけたとき、地名由来の宮崎が武家として歴史の前面に出る瞬間を目の当たりにした気持ちになります。
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藤原利仁流・紀姓など系統が分かれた経緯

ただし、宮崎姓を名乗った家は越中だけではありません。
新潟県朝日町宮崎の藤原北家利仁流の宮崎家、宮崎県の紀姓・藤原氏族の宮崎家など、由来の異なる複数系統が並立しました。
祖先譜が違えば、同じ宮崎でも受け継ぐ紋や家格の組み立ても変わるはずで、名字だけでは家の全体像は読めません。

この多系統性は、第1章で見た「同じ宮崎でも一つの血統にまとめない」という前提を歴史の側から支えます。
地名由来の姓が各地で独立して生まれ、さらに武家としての宮崎党、利仁流、紀姓系が重なったことで、宮崎は一つの家名というより、複数の出自が交差する名前になったのです。
こうして見ると、宮崎姓のルーツをたどる作業は、単に祖先を探すことではなく、土地・武士団・系譜がどう分岐したかを読み解く作業になるのでしょう。
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自分の家の家紋を調べる方法

自家の宮崎家紋を調べる順序は、墓石、仏壇・位牌・過去帳、紋付などの和装、本家への聞き取りという流れがいちばん確実です。
最初に形が見つかれば、その後の確認が早くなり、家に残る紋の筋道も追いやすくなります。
遠目では判別しにくい棹石の紋も、撮影して拡大すると意外に輪郭が立つものです。

墓石・仏壇・紋付から探す

墓参りでは、まず棹石、水鉢、墓誌を見ます。
ここには家の印が刻まれていることが多く、特に墓石は家紋を探す入口として最短です。
実際、棹石の紋をスマホで撮って拡大しただけで、帰宅後に図鑑と照合して丸に抱き茗荷だと特定できました。
抱き茗荷か桔梗か鳥居に鳩かという違いは、現地では見逃しやすいのに、写真なら外輪や葉の重なりがはっきり見えてきます。

墓石の次は仏壇、位牌、過去帳です。
世代をまたいで使われるため古い紋が残りやすく、墓所では消えかけていた形が仏壇側で明瞭になることもあります。
さらに紋付羽織、喪服、風呂敷、袋物のような和装や持ち物も見てみましょう。
冠婚葬祭で使う品は家の印が必要な場面に選ばれるので、装飾よりも実用のために残った紋として手掛かりが強いのです。

本家・年長の親族に聞く

図像が見えたら、本家や年長の親族に聞きます。
形の確認だけで終わらせず、どの土地から分かれた家なのか、いつからその紋を使ってきたのかまで聞くと、調査は一段進みます。
地名型の宮崎は本家筋にしか伝わらない情報が残ることがあり、紋の由来と家筋の話が一緒に出てくるのが普通です。
利仁流や紀姓神職系といった系譜に触れる話が出れば、名称の断片が家の来歴へつながるでしょう。

高齢の親族に尋ねた場面では、紋そのものよりも先に、どの土地で分かれたか、誰がどの墓を守ったかという話が動き出しました。
丸に抱き茗荷らしい、という一言から、昔の分家の位置や、婚礼のたびに使った紋付の話まで広がることがあります。
聞き取りは短く切り上げず、言い伝えをそのまま拾うことが肝心です。

紋の名称を図鑑・一覧で照合する

撮影した紋は、家紋図鑑や家紋一覧サイトと照合して正式名称まで絞ります。
丸に抱き茗荷と丸に桔梗のように、似た印は少なくありませんが、外枠の有無、花弁や葉の数、線の太さを見比べると誤認を減らせます。
墓石と仏壇で見た形が一致すれば、長く伝わってきた紋と見てよい判断材料になります。

照合のときは、名前だけを先に決めないことが大切です。
輪郭が似ている別紋は多く、写真で見れば同じに見えても、実物では中心線の取り方や円の入り方が違います。
だからこそ、墓石、仏壇、紋付で拾った形を並べて比べ、最後に正式名称へ落とし込む流れが有効です。
おすすめです。
名前が確定すると、家の来歴を整理する次の調査にもつながります。

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