日本の家紋

黒田官兵衛の家紋・藤巴紋の由来と本当の正紋

更新: 編集部
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黒田官兵衛の家紋・藤巴紋の由来と本当の正紋

黒田官兵衛の家紋として知られる藤巴は、三つの藤の花房を左三つ巴の渦巻き状に配した紋で、藤と巴という二系統のモチーフがひとつに重なっています。大河ドラマやゲームで見覚えがあるあの紋を調べると、感動的な牢の藤の伝説が先に出てきますが、実際には黒餅が定紋で藤巴は替紋だったという整理も必要になるのです。

黒田官兵衛の家紋として知られる藤巴は、三つの藤の花房を左三つ巴の渦巻き状に配した紋で、藤と巴という二系統のモチーフがひとつに重なっています。
大河ドラマやゲームで見覚えがあるあの紋を調べると、感動的な牢の藤の伝説が先に出てきますが、実際には黒餅が定紋で藤巴は替紋だったという整理も必要になるのです。
さらに、もっとも史実性が高いのは黒田職隆が小寺氏に仕えた際に主家の紋を受け継いだ拝領説で、小寺氏の橘藤巴から中央の橘を外した形が黒田藤巴だと考えると、由来の輪郭はかなりはっきりします。
創作と史実が混ざりやすい家紋だからこそ、何が伝説で何が確かな筋なのかを丁寧に見分けていきましょう。

藤巴紋とは|藤と巴を組み合わせた渦巻きの家紋

項目 内容
名称 藤巴紋
構成 藤の花房3つを巴状に配した複合紋
向き 左三つ巴
代表的な系統 黒田藤巴、橘藤巴、三つ藤巴、下り藤に三つ巴
位置づけ 藤紋と巴紋が重なった家紋

藤巴紋は、三つの藤の花房を巴の渦巻きに見立てて配した家紋で、黒田家のものが最もよく知られています。
藤という植物紋と、巴という抽象文様が一つに重なっているため、見た瞬間に「藤なのか、巴なのか」と迷いやすい紋だといえるでしょう。
神社の幕で見慣れた三つ巴と同じ仲間だと気づくと、図柄の読み方がすっとつながります。

藤巴の基本は、花房が3つ集まって円を描くことです。
巴は丸い頭と細い尾からなる勾玉状の文様で、3つ組むと三つ巴になります。
藤巴はその回転感を借りながら、藤の房を巴の輪郭に沿わせるので、植物紋でありながら抽象文様としても読めるのが面白いところです。
家紋帳やゲームのアイコンで見たときに判別しづらいのは、この二重性があるからでしょう。

藤巴の基本デザイン:三つの藤花房を巴状に配する

藤巴は、三つの藤花房を巴状に並べた複合紋です。
中心を囲むように房が回り込み、全体として渦を巻く印象をつくります。
単なる植物の写実ではなく、巴の動きに藤を載せることで、静かな花房に勢いが生まれるのが特徴です。
藤巴が黒田家で有名なのも、この抽象性と視認性のバランスが武家の紋として映えたからだと考えると分かりやすいでしょう。

この種の紋は、藤紋と巴紋の二系統が一体化している点が肝心です。
藤だけを見れば繁栄や長寿の象徴として読め、巴だけを見れば神社の幕や武家の意匠として読めます。
どちらか一方ではなく、両方の記号を重ねているからこそ、藤巴は「家の由緒」と「武家らしい構え」を同時に示す紋になるのです。
ここが黒田藤巴を理解する入口になります。

左三つ巴とは|頭の回転方向で左右を区別する

巴は、頭と尾の向きで左右を分けます。
三つを組み合わせたとき、頭が時計回りに回るものを左三つ巴、逆向きのものを右三つ巴と呼びます。
言い換えると、同じ三つ巴でも回転の見え方で呼称が変わるわけで、初学者が混乱しやすいのは当然です。
藤巴を見分けるときは、まずこの回転方向を押さえると読み違えにくくなります。

黒田藤巴は左三つ巴で構成されます。
家紋帳やゲームのアイコンで「藤の房の向き」と「巴の回り方」が重なって見えると、どこから見ればよいのか戸惑うはずです。
けれども、神社の幕でよく見る三つ巴と同じ回転の感覚だと分かれば、急に腑に落ちます。
あの渦巻きの仲間だ、と。
ここで名称と図柄が結びつくと、その後の紋の違いも追いやすくなるでしょう。

黒田藤巴の特徴|中心に橘ではなく三つ葉を置く

黒田藤巴の要点は、中心に三つ葉を置き、その周囲に三つの藤花房を巴状に回す点です。
後述する小寺氏の橘藤巴は中心に橘を据えますが、黒田のものはそこが三つ葉になるため、見分けの鍵は中心モチーフにあります。
細部の違いに見えて、実はこの一点で系譜の見え方が変わるのです。
紋の輪郭だけでなく、真ん中を見てください。

この違いが重要なのは、藤巴が単なる意匠ではなく、主家との関係を映す紋だからです。
黒田官兵衛の父・黒田職隆が播磨の御着城主・小寺政職に仕え、小寺姓を許された流れの中で、主家の紋を受け継いだという理解が最も史実性が高いとされます。
さらに、小寺氏の元紋「橘藤巴」から中央の橘を外した形だとすれば、家臣としての距離感まで図柄に残っていることになるでしょう。
1578年に小寺政職が織田方を裏切ったため、拝領紋を掲げ続ける立場が微妙になった、という時代背景も見逃せません。

紋名中央のモチーフ外周の意匠位置づけ
黒田藤巴三つ葉藤花房3つを巴状に配する黒田家で広く知られる替紋
橘藤巴藤花房3つを巴状に配する小寺氏の元紋
三つ藤巴非公表藤を三つ巴状に配する藤巴の変種
下り藤に三つ巴非公表下り藤と三つ巴の組み合わせ藤巴の変種

藤巴という紋は黒田家だけの専用品ではありません。
三つ藤巴や下り藤に三つ巴のような変種が伝わり、藤と巴の組み合わせ自体に複数の作法があったことが分かります。
ただし黒田家の藤巴がとりわけ知られるのは、官兵衛・長政という人気武将と強く結びついたからです。
黒田節と名槍「日本号」の逸話まで重なると、家紋が単なる標識ではなく、武将像を支える記号として機能していたことが見えてきます。

黒田官兵衛が藤巴を使った経緯|小寺氏からの拝領が有力

黒田官兵衛の藤巴は、官兵衛本人の発明というより、父・黒田職隆が播磨の御着城主・小寺政職に仕えた関係のなかで受け継いだ紋とみるのが最も自然です。
職隆が小寺姓を許されるほど重用された事実を踏まえると、藤巴は主家への帰属を示すしるしだったと考えやすいでしょう。
戦国の家紋は個人の思いつきで生まれるより、主従の結びつきから移っていくことが多い。
そこが面白いところです。

播磨時代の主家・小寺氏に仕えた黒田家

官兵衛の父・黒田職隆が小寺政職に仕え、小寺姓を許された経緯は、藤巴の由来を考えるうえで出発点になります。
単に雇われた家臣ではなく、主家の名乗りに近づくほど信任されたのだから、家紋にもその関係がにじむのは不思議ではありません。
戦国の武将にとって紋は自己表現というより、どの勢力圏に属するかを示す実用品だったのです。

実際、小寺と黒田の紋を並べて見ると、中央の橘の有無が目を引きます。
こうした差は小さいようでいて、家臣としての遠慮や分をわきまえる感覚が図像にそのまま出ているようで、見比べるほどに納得が深まります。
家紋観が変わる瞬間は、こういう細部にあります。

小寺氏の『橘藤巴』から橘を外した黒田藤巴

小寺氏の元紋は、中央に橘を据えた『橘藤巴』でした。
黒田家が使った藤巴は、その構図から橘を外した形だと伝わり、主家の紋をそのまま流用するのではなく、家臣として一歩引いた姿に整えたものと読めます。
藤の花房を巴状に配した意匠自体は同じでも、中心を空けるだけで印象は変わる。
そこに上下関係の感覚が宿るわけです。

この「少しだけ改める」やり方は、当時の武家社会ではとても理にかなっています。
主家の象徴を借りながら、完全な同一化は避ける。
その距離感があるからこそ、拝領の事実も、従属の姿勢も、どちらも図案の中に収まるのです。
黒田家の藤巴を見ていると、紋が単なる模様ではなく、関係性を映す記号だったことがよくわかります。

1578年の小寺政職の離反と紋の問題

1578年、小寺政職が織田方を裏切ると、黒田家が拝領した藤巴をそのまま掲げ続ける立場は微妙になりました。
主家が政治的に揺れれば、そこから受けた紋の意味も揺れるからです。
だからこそ、藤巴の由来を主家からの拝領に求める説は、家紋が戦場や忠義だけでなく、主従関係の変化にも左右されることを教えてくれます。
後年に黒餅の重用が目立つのも、そうした事情と無関係ではないでしょう。

ℹ️ Note

牢の藤の伝説は話としては印象に残りますが、史料と家臣制度の常識から見ると、拝領説のほうがずっと無理がありません。感動的な物語がそのまま史実とは限らない、そこを見分ける視点が大切です。

黒田官兵衛の藤巴をめぐる理解では、華やかな創作より、主家との関係を丁寧にたどるほうが筋が通ります。
黒田職隆が小寺政職に仕え、小寺姓を許され、小寺氏の『橘藤巴』から橘を外して藤巴とした――この流れを押さえるだけで、家紋の見え方はぐっと立体的になります。
史実を見ていく面白さは、こういう地味な筋道の中にこそあるのです。

有名な『牢の藤』の逸話|有岡城での幽閉と藤の蔓

1578年、官兵衛は離反した荒木村重を説得するため有岡城へ向かいましたが、逆に捕らえられ、約1年間も土牢に幽閉されたと伝わります。
のちに広く語られる『牢の藤』の逸話は、この厳しい時間の中で生まれた物語です。
単なる美談ではなく、苦境の只中で希望を見いだした人間像として受け止められてきました。

有岡城に幽閉された官兵衛(1578〜1579年)

有岡城での幽閉は、1578年から1579年にかけての官兵衛の運命を大きく変えた出来事でした。
荒木村重を説得するために乗り込んだはずが、立場は一転して囚われる側になる。
この急転直下の展開が、後に「牢の藤」と呼ばれる物語に強い緊張感を与えています。
救出までの約1年は、ただ時間が過ぎたのではなく、希望を試される長い停滞だったのでしょう。

1579年10月の有岡城落城で救出されたと伝わる点も重要です。
閉じ込められたまま終わらず、城の崩壊とともに外へ戻る流れが、物語としての解放感を生みます。
長期の幽閉で足が不自由になったとも伝わり、ここには肉体の痛みと精神の持久戦が重なっています。
重みのある逸話だ。

土牢から見えた藤の蔓に希望を得たという家伝

黒田家の家伝では、官兵衛は陽の差さない土牢の格子越しに藤の蔓を見つけ、その伸びゆく姿に心を支えられたとされています。
暗い牢の中では、季節の移ろいを知る手がかりすら乏しいはずです。
そんな場所で、日ごとに伸びる藤の生命力だけが外の世界とつながる細い糸のように映ったのではないでしょうか。
だからこそ、この話はただの植物譚ではなく、生き延びる感覚そのものを描く物語になります。

救出後、この藤を家紋に定めたという家伝も語り継がれてきました。
家紋は単なる印ではなく、苦難をどう記憶するかを示す象徴です。
藤を選んだという語りは、弱さの裏返しではありません。
暗闇の中でも伸びるものに未来を託した、という解釈が自然です。
ここに、官兵衛の人物像が凝縮されています。

なぜこの逸話は人の心を打つのか

この逸話が強く残るのは、不屈の精神と再生のシンボルとして藤がきわめてわかりやすく働くからです。
大河ドラマや小説でこの場面に胸を打たれ、あとから創作の色合いが強いと知って複雑な気持ちになった読者もいるはずです。
それでも印象が消えないのは、史実かどうか以前に、苦しみの中で意味を見いだす構図が人の感情に直結するからでしょう。
物語としての魅力は本物だ。

実際に有岡城跡を訪ねると、幽閉伝承の地に立つだけで空気の重さが変わって感じられます。
そこでは、藤の蔓そのものよりも、牢の暗さと救出後の解放感の落差が際立ちます。
だからこそ次に気になるのは、この美しい話がどこまで史実として確かめられるのか、という点です。
感動の理由と史実の確認は、分けて考えてみてください。

『牢の藤』説は本当か|中島利一郎の批判と史実の検証

中島利一郎は、黒田家史の編纂に関わった立場から「牢の藤説」を諸説の中でも最も根拠の弱い説として退けた。
感動的な逸話ほど史実検証が必要だと痛感するのは、こうした話が語り口の強さで事実らしく見えてしまうからだろう。
実際、複数の家紋解説で牢の藤説が既成事実のように扱われているのを見ると、出典をたどる作業の重さがよくわかる。

編纂者・中島利一郎が指摘した矛盾点

中島利一郎が問題にしたのは、話の印象ではなく、諸説を並べたときの筋の通り方である。
黒田家の家紋を獄中の体験に結びつける牢の藤説は、英雄譚としてはわかりやすい。
だが比較研究の目で見ると、説明の要点が「藤を見たから藤巴になった」という一点に寄りかかりすぎており、由来を支える材料が薄い。
だからこそ中島は、最も根拠の弱い説だと評したのだ。

この批判は、逸話を全面否定するためではなく、史実と伝承を混同しないための線引きでもある。
語りとしては魅力があっても、家紋の由来を説明する根拠としては別問題になる。
読者がここで押さえるべきなのは、人気がある説と、実証に耐える説は一致しないという点である。

幽閉前から使用していたという時系列の問題

牢の藤説の最大の弱点は時系列にある。
藤巴は幽閉の1578年より前から黒田家が用いていたと考えられ、『牢で見た藤を後から紋にした』という筋立てと正面からぶつかる。
つまり、出来事の順番そのものが合わない。
後から見た景色をきっかけに紋章が生まれたのだとすれば、そもそも幽閉以前の使用を説明できないのである。

この点は、家紋の成り立ちを知るほど納得しやすい。
家紋は主家や父祖から受け継ぐのが通例で、個人の獄中体験から新たに創作するのはかなり例外的だ。
制度面から見ても、牢の藤説は物語の鮮やかさに比べて実証の足場が弱い。
時系列の矛盾は細部の問題ではなく、説そのものを支える土台の問題になる。

観点牢の藤説拝領説
成立の筋道幽閉中の体験から新たに着想したとする主家や父祖から受け継いだ家紋とみる
時系列の整合性1578年以前の使用と矛盾する先行使用と整合しやすい
説の安定度比較研究で最も根拠が弱い有力説として扱いやすい

逸話と史実をどう扱うべきか

では、牢の藤説にまったく価値がないかというと、そんなことはない。
後世の人々が官兵衛の不屈さや逆境に耐える人物像を重ね、物語として磨き上げた伝承だと考えると、この話はむしろ生きてくる。
『史実の由来=小寺氏拝領』『逸話=後世の脚色』と二層で捉えれば、何が事実で何が後代の演出かが見えやすい。

史実としての家紋の由来は拝領説が有力で、そこを軸に置くのが筋だ。
いっぽうで、牢の藤説は人々が官兵衛像をどう受け止めてきたかを映す文化的な資料として読むと面白い。
断定しすぎず、しかし曖昧にもしない。
この距離感が、伝承を楽しみながら史実も守るいちばんよい付き合い方ではないだろうか。

もう一つの家紋『黒餅(白餅)』|実は定紋はこちら

黒田家の家紋は藤巴だけではなく、黒餅(石餅)という円形紋が定紋でした。
福岡市博物館の資料でその事実を知ると、黒田=藤巴という思い込みはすぐに揺らぎます。
藤巴はよく知られた紋であるだけに、正式な立場にあったのが黒餅だと分かると、家紋の見え方が一段変わるのです。

黒餅(石餅)紋のデザインと縁起のよさ

黒餅は、餅を丸くしたような単純な円形で、満月を象った紋として理解できる。
装飾を削ぎ落とした形なのに、そこには「こくもち」が「石持ち」に通じるという語呂が重ねられ、領地を持つ武家にふさわしい吉祥が込められた。
見た目は静かでも、意味はかなり強い。
家紋が単なる識別記号ではなく、土地と家の繁栄を願う言葉遊びでもあったことがよく分かるでしょう。

定紋は黒餅、替紋が藤巴という関係

『寛政重修諸家譜』は黒田家の紋を白餅・藤巴・永楽銭と記しており、そこからも紋の序列が読み取れる。
表門に置かれた正式な紋が黒餅で、藤巴は替紋として使われた、という関係だ。
つまり藤巴は「黒田家らしさ」を広く印象づける紋ではあっても、家の正面を担う定紋そのものではない。
ここを取り違えると、黒田家の紋章体系は一気に単純化されてしまいます。

福岡市博物館の資料を見たときも、まず驚くのはこの順序でした。
藤巴の方が目立つのに、正式な位置づけは黒餅にある。
永楽銭まで含めて考えると、黒田家は一つの紋で済ませるのではなく、用途と場面に応じて使い分けていたことが見えてきます。

江戸時代の福岡藩で白餅が多用された理由

江戸時代の福岡藩では、円形を描くだけの白餅が実用上よく使われた。
黒く塗りつぶした黒餅よりも、白い円だけの方が描きやすく、馬印や調度に載せたときの視認性も高いからだろう。
長政の馬印や調度にも見られるので、黒餅は制度上の定紋、白餅は現場で動きやすい実用品として働いていたと考えると理解しやすい。

ここで面白いのは、藤巴が「有名な紋」として記憶されやすいのに対し、日常の現場では白餅が前に出ていた点にある。
つまり、黒田家では一枚岩の家紋ではなく、正式さ、見栄え、運用のしやすさがそれぞれ別の紋に分担されていた。
家紋の使い分けは、武家の実務そのものだったのです。

藤巴を構成するモチーフの紋章学|藤紋と巴紋

藤巴は、藤紋と巴紋という独立した二つのモチーフが重なって生まれた複合紋です。
分けて見ると、それぞれが担う意味ははっきりしていて、藤は繁栄と長寿、巴は渦巻きの力強さと神威を背負っています。
だからこそ藤巴は、ただ装飾的に並べただけの紋ではなく、複数の吉祥を束ねた奥行きのある意匠になるのです。

藤紋|藤原氏ゆかりの繁栄・長寿の象徴

藤紋は、藤原氏ゆかりの紋として広まった植物紋で、藤の蔓が長く伸び、繁殖力が強く、しかも寿命も長いことから、子孫繁栄と長寿の吉祥を重ねて受け止められてきました。
平安期には貴族が衣服に付けていた由緒ある紋でもあり、単なる花の図案ではありません。
家の由緒と生育の勢いを同時に示すところに、藤紋が長く選ばれてきた理由があります。
藤を知ると、藤巴の「藤」がなぜ格を感じさせるのかも見えてくるでしょう。

藤紋は、見た目の優美さの裏に、蔓植物ならではの生命力を抱えています。
枝に絡みつきながら伸びていく姿は、途切れず続く一族の繁栄を思わせ、花房がまとまって垂れる形は、まとまりのある家の象徴としても読めます。
武家や公家の文様を眺めるとき、この「形」と「意味」がずれていない点が面白いのです。
藤巴の藤は飾りではなく、意味の核だと考えてよいでしょう。

巴紋|八幡宮の神紋と渦巻き文様の起源

巴紋は、八幡神を祀る八幡宮系神社の神紋として全国に普及した紋です。
渦を巻くような形から、水の流れを表す水巴、勾玉に結びつける見方、雅楽の大太鼓に描かれた巴文に由来するという説まであり、起源は一つに定まりません。
ただ、紋章学者の間では太鼓文様説が支持されるとされ、儀礼の場で反復される音と図形が結びついたと見ると、巴紋の強さが理解しやすくなります。

巴紋の魅力は、静止した図なのに回転して見えるところにあります。
左三つ巴と右三つ巴は、巴の回転方向が逆になった形で、見た目は似ていても運動の向きが違います。
神社でよく見る三つ巴は、こうした向きの差まで含めて採用されており、文様がただの図案ではなく、場の思想を映す記号であることがわかるはずです。
神社の三つ巴と武家の藤巴が地続きだと気づくと、日本の文様が案外ひとつの流れでつながっていることに驚かされます。

渦を巻くモチーフという東西比較の視点

巴のような渦巻き文様は、日本だけのものではありません。
ケルトのトリスケルのように、世界各地でも回転や循環を思わせるモチーフが繰り返し現れます。
形は違っても、渦が「続く力」や「めぐる力」を表しやすい点は共通していて、藤巴を読むときにもこの普遍性が手がかりになります。
東西の紋章を横断して見ると、藤巴は日本固有の意匠でありながら、より広い視野では渦巻きという人類共通の造形に連なっているのです。

この視点で見ると、藤巴は藤の繁栄性と巴の循環性を一つに結んだ紋だとわかります。
植物の伸びる力と、渦が回り続ける力。
性質は異なりますが、どちらも「止まらずに続く」イメージを持ち、吉祥の表現として相性がよいのです。
別々に藤紋と巴紋を調べてから藤巴を見ると、なぜこの二つが組み合わさると吉祥になるのかが腑に落ちます。
読後は、他の渦巻き文様とも見比べてみてください。
おすすめです。

黒田家ゆかりの家紋エピソード|長政と黒田節

黒田長政の代になると、家紋は単なる識別印ではなく、人物像まで含めた視覚表現として磨かれていきます。
秋月藩初代・黒田長興の書状には、長政が母の紋を気に入り、中の三つ橘を除いて藤巴に改めたと残り、藤巴が長政世代で整えられていく流れが見えてきます。
紋の選び方そのものに、黒田家の美意識と家のまとまりがにじむのです。

長政が母の紋として藤巴を選んだという書状

秋月藩初代・黒田長興の書状に、長政が母の紋を気に入り、中の三つ橘を除いて藤巴に改めたという記述が残ります。
ここで大事なのは、藤巴が最初から固定された完成形だったのではなく、長政の代で意匠が整えられていった点でしょう。
家紋は血筋のしるしであると同時に、どの要素を残し、どの要素をそぎ落とすかで家の姿勢まで示します。
黒田家の場合、その選択がとても明快です。

この一文を読むと、紋章は単なる図案ではなく、身内の記憶や母方へのまなざしを含むものだとわかります。
藤巴は抽象的な美しさだけでなく、長政がどの系譜を自分の家の核として引き受けたのかを伝える手がかりになる。
史料の短い言葉ですが、黒田家のブランド形成が早い段階から意識されていたことまで見えてくるのではないでしょうか。

長政の兜|一の谷形と大水牛脇立桃形

長政を語るうえでは、家紋と並んで兜も外せません。
関ヶ原以前の長政は一の谷形兜を用い、若い頃は黒漆塗桃形に大水牛の角を立てた兜を愛用しました。
藤巴のように洗練された紋と、荒々しく張り出す角を備えた兜。
その対比が鮮やかで、黒田家の見せ方の巧みさを強く感じさせます。

図録で大水牛の兜を見たとき、まず目に入るのは威圧感です。
ところが、その横に藤巴を置いてみると、同じ家が持つ印象がぐっと広がります。
静かな紋と、戦場で映える兜。
どちらも長政の姿を支える視覚的アイデンティティであり、黒田家がただ武勇だけで押し切る集団ではなかったことを物語る要素だと言えるでしょう。

黒田節と名槍『日本号』の逸話

黒田家の気風を語る物語として、『黒田節』は外せません。
家臣の母里太兵衛が福島正則から大盃の酒を飲み干し、名槍『日本号』を飲み取った逸話は、豪胆さと機転の両方を伝えます。
全長約321.5cm・刃長約79.2cmの槍が現在福岡市博物館にあると知ると、歌の中の物語が急に現物の手触りを帯びる。
家紋と逸話が、歴史資料と実物のあいだでつながる面白さです。

黒田節を耳にしてから日本号の現物を知ると、藤巴を掲げた黒田家がどんな集団だったのかが立体的になります。
紋は格式を示し、兜は戦う姿を示し、黒田節は人の勢いを示す。
三つがそろうと、長政の家が単に整った家柄だったのではなく、強さと洒脱さをあわせ持つ一族だったと見えてきます。
家紋を入口に人物史へ進みたくなるのは、こうした重なりがあるからです。

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